歯科巡礼の旅の途中、老賢者に出会う

もう10年近く前の話になりますが、近所で良い歯医者を探していたことがあります。
結局4軒回って納得出来る歯科医を見つけたので、僕の歯科巡礼の旅は終わったのですが、その内の1軒に、よぼよぼなお爺さんが営んでいる歯科がありました。
かなりのご高齢のようで、ちょっと本気で「ダイジョブかな?」と心配になるほどのよぼよぼっぷりでした。
ところがこの老歯科医、なかなか茶目っ気があるというか、ユーモアを解する人でして、治療中なのに、
「あー血が全然止まんないや。やっぱ若いねぇ。私なんか血が出たと思ったらすぐ止まっちゃうけど」
などと人を笑わせるようなことを言ってきます。しかもその口調がイイ具合にとぼけてまして、それがまた笑いを誘います。
もちろんこれが午後のお紅茶の時間であれば、僕もそれに付き合って楽しく談笑するところですが、なんたってこっちは歯をドリルで削られている状態にあるわけで。
アハハなんて笑った瞬間に笑えない状態になることが目に見えていますから、笑いを堪えるのに必死でした。


また、老歯科医が好きなのか、院内ではいつもクラシックがかかっていました。
その日も静かなピアノ曲がかかっていまして、僕が「ショパンですね」と言うと、
「ああ、本当はベートーベンが好きなんだけどね。『運命』聴きながら歯削られんのイヤでしょ?さて、んじゃやるか」
そ、そのドリルちょっと待ったぁ!アハハハハ。


と、まあ大変愉快な老歯科医だったのですが、あまりにも治療に時間がかかりそうだったので、結局4回ほど通っただけで、その歯医者には行かなくなりました。
それから4年ほど経った頃、その老歯科医はお亡くなりになり、いまは建物もなくなってしまいました。
でもあの愉快な時間を、僕はいまだ忘れずにいます。
先生、そちらでは『運命』を聴きながら歯を削ってもダイジョブだと思います。
お好きなだけドリルをお振るい下さい。



※さて、僕はこの雑記の中で、1つだけ嘘をつきました。
 歯科は確かに廃業されましたが、その先生は今なお御健在です。アデュー。