殴ってクン

「あの・・・ボクを殴って下さい」
一昨年の冬のある日、僕は生まれて始めて暴力を振るうことを頼まれた。
「え?・・・はい?」
「ボクを殴って下さい」何を言われたのか判断出来ずにいる僕に、その男は繰り返し言う。
「腹を思いっきり殴って下さい」
場所はとあるデパートのトイレ。用を済ませた僕に用があった男との出会い。他に人はいない。出入り口はその男によって塞がれている。
ちょっと小太りなその『殴ってクン』は、見たところ二十歳そこそこくらいか。どんよりとした暗い空気をまとっている。見ると汗だくで、気分が悪そうだ。
僕は殴ってクンが、腹の具合か、もしくはどこか他の場所の具合が悪い急病人なのだと判断した。
モノを喉に詰まらせたら、一般的に叩くのはお腹じゃなく背中なので、食べ物を喉に詰まらせたのではなさそうだ。
(でも殴って症状が改善するのか・・・?)という疑問もあったが、「ダイジョブですか?」と、ポンポンとお腹を叩いてやる。
もちろん思いきりなんて殴らない。友人の肩を叩くような感じでポンポンと。だって相手は病人だし。


ところが殴ってクンは、僕の好意がお気に召さなかった。
「いや、そうじゃなくて、もっと思いっきりグーで殴って下さい」
へ?お腹が痛いのに思いきり殴るの?そんな療法は聞いたことがない。タイ式?
「あの、どうしたんですか?」
「ちょっと、その、イヤなことが、あったんで・・・」
「はぁ・・・」
「自分を痛めつけたいんで、お願いします」
ここでようやく僕も、変な状況になっていることに気付く。


僕が殴ってクンの腹を殴ることによって、誰が得をするというのだろう。
そりゃゲームセンターのマシーンのように、パンチ力が殴ってクンの目にでもはじき出されるのであれば、面白いので殴ってみないこともないが、頼まれたからといって、生まれて始めて出会った殴ってクンの腹を殴るほど僕はお人好しじゃない。
「いやそんな、ワケも分からず人を殴るなんて出来ませんよ」
「そんなこと言わずにお願いしますお願いします!」
イヤですってば!殴って下さい!イヤですってば!殴って下さい!
こんなやりとりは生まれて始めて体験した。
殴ってクンは僕の腕をつかんで、トイレから出て行こうとする僕を引き止めている。しかも結構力が強く、簡単には振り払えそうにない。
「もう、いい加減にしろよ!」ドスッ!・・・あ。


こうして殴ってクンの思惑通りに事は進み、僕は無事にトイレから出た。
しかし何だったんだろう・・・まるで奇妙な夢でも見ているみたいな・・・。
デパートを出て、道行く人に僕はこう言ってみた。
「あの・・・僕をつねって下さい」